もともと自由だったなんてあまり考えてなかった。
昔のものについて感情がこもってしてしまうものは、きっと自分がそういう気質だからと思っていたのだけど、違ったようだ。「昔のもの」というカテゴリではなくて、ただそれが特定の事象だったからだったようだ。
僕の本来の性質は「自由」だったから、その特定のこと以外は、過去だからといってそんなに感情はこもっていなかったんだ。
僕は、他者をコントロールしたいという欲求を自分自身に感じることがあるけれど、それはあくまで他人は他人、自分は自分と区切っているからだ。
「他人は他人で自分は自分」と区切ることは、つまり自由ということだ。他人と認識が混じらないことは、自由だ。境界が存在することは、境界内にいれば自由ということだ。
そんなに重要に考えていなかったのだけれど、やっぱりターニングポイントだったそれは、終わった後には元に関係値を戻すべきだったのだ。あるいは、その対処に必要なものは、使い終わったらいらないものだったのだ。境界の混じってしまったところを修正さえすれば良かっただけだ。
基本的にタイミングなんて認めていないのだけれど、しかし流れは確かにあって、束縛があり、束縛を返し、お互いに窮屈にしあっていたのだ。それはそれで幸せだったのだけれど、それが全部じゃないことに気づけなかった。解決したはずの問題の用具たちがまだちらかっていて、自分を苦しめることになった。
片付け終わったら、道具もしまいましょう。そういうことですね。
ただ僕が自由であることを諦めてしまったことがすべての原因だったのだ。