Life is 迎撃

ポエムブログです。

好きになることは、相手を認めることだ。

好きな人を好きになってはいけない、という話があってだね、どういうことかというと、 「人を好きになることは、その人に期待することだ。触れてほしい、自分のものになってほしいと願うことだ。好きな人が笑顔でいられたら嬉しい。だからといって、その全てを祝福して自分以外の恋人ができることやその人の選ぶその人にとっての素敵な将来全てを嬉しく思うことはできない。自分がもし付き合えたとしても、小さなことにイラついて大きく束縛してしまう。嫉妬してしまう。だから好きになっちゃいけない。」そんな感じ。 web上で見たんだけどね、ずいぶん前に。記憶の中なので実際の記述ではないけど。 「昔馴染みの友達になら、きちんとその幸せを願えるのに。自分に長い間連絡をくれなくても、誰と寄り添っても心からその幸せを願えるのに。」そんなことも書いてあった。 ここでは、相手と付き合うことを前提で話をするけど、じゃあ嫉妬してしまうことについて束縛してしまうことについてどう解決するか。 先ほどの文に対するコメントで、「人を好きになることは、適度に相手をあきらめることだ」って言うのがありまして。なんかずーっとひっかかってたんだよ、この表現に。なんだか諦めるって失礼じゃねぇの?って。 最近分かったのだけれど、それはきっと「相手を認めること」なんだなぁと。まぁ相手を尊重しろなってよくいうけれどそのとおりで、しかしまぁ今までピンとこなかった。人を好きになることは、適度に相手を認めることなんだよ。 そのコメントの中で、「ずっと一緒じゃなきゃ嫌だと思っていたときもあった。けれど、自分自身が他でもある程度好きに過ごしていたいということ、相方もある程度同じように好きに振舞ってほしい・そうでなければ相方じゃない」みたいなことがあった。相手を諦めること、と言っているけれど、要するにそんな相方を認めてるわけなのかと思った。 そういうところがあるからこそ、好きな人なんだなぁって。やっぱり、そう思う。 もちろん、全部許せという話ではなくてね。全面肯定をしろということではなくてね。”認めよう”という話だ。そして、それができるのは、昔馴染みの友達だけじゃない。もしはじめが難しくても、長い付き合いで組み立てて行くことができる。 人を好きになることは、相手を認めること。そんなところがあるからこその、好きな人。そうでなければ、君じゃない。そんなあなたが大好きです。 ま、今日はこんなところで。